伊豆蔵明彦のインスタレーションを代表する二つのボール。直径二メートル。 「蚕の作った球体」と「私が作った球体」。 「蚕の作った球体」は蚕が繭を作る習性を利用して、蚕一万匹で3日間で作り上げ、製作過程で蚕一万匹はこの球体から蛾になって空中へと飛び立つ (ワークショップ中は、この蚕が作った球体を後頭部にぶつけながらの席だったからなのか自然に、ただ作ることができた。)
私が作った球体は伊豆蔵明彦が繭玉をほぐして絹糸をシート状にのばし独りで7時間で作ったもの。
予定を変更して飛び乗った新幹線。 絲法自然 自然に学ぶ 伊豆蔵明彦の世界・ 愛でるギャラリー祝へと。 ギャラリーに着くやいなや、祝子さんは、「wakaちゃん、この中へ入ってぇ」と荷物を抱えたままコチニールを味わった真綿の球体の中へ。作品も見たいし、なんやかんやと焦る心だったが、コチニール......うちにもコチニール染液が瓶に入ったままある。。。なんて思いながら味わう。
そして自らが、球体の中へ頭を入れた途端、涙が溢れた「 誕生・feeling at birth / 生まれる気持ち 」何度も頭を入れたり出したり、その都度、涙が溢れて流れ落ちた私の化粧は不思議な染めをしたような顔になっていた。この誕生の球体は、雨水に晒し続け、その水が腐り虫が湧き放置して生まれた色。本当の自然の染めだ。
伊豆蔵明彦氏は、京都西陣で代々続く古い家柄の帯屋。その伊豆蔵家に生まれた明彦氏は正倉院に伝わる束帯その組織の技法を再現し袋帯として世に出されました。また、企業人として数々の足跡を残すと同時に半世紀に及ぶ研究を経て「織る」「組む」「綱む「絡む」という染色道としてまとめアメリカ・ボストンにて発表
今回は、真綿を伸ばしてシートにして作品を作るワークショップにも参加。ワークショップはキャンセル待ちが出るほどだったので大人数でのワークだったので、私は「自分で作った球体」が後頭部に迫る場所で、光量が少ない場所での製作だった。以前のディスプレイの仕事の時も光量が少ないと脳が手先と繋がらなくなるので、閉店後のデパートでも警備室にお願いして、光量を確保していた。しかし、今日は、仕事を離れて自由に製作したいと思っていたので、あえて色の配色なども気遣わず、ある意味、目を閉じて製作してもよかろうと。
「教えない」というのが伊豆蔵の教え方と。スタッフの方がおっしゃる。うちの師匠もそうだったなと思いながら、何点か製作をした。ワークショップの後、長年のスタッフの方々から色々とお話を聞く機会に恵まれた。
着物文化
代々続く京都西陣の帯屋。着物業界全般でも色々なシキタリや決め事などがある。代々続く京都と言えば、想像がつかない程のものがあるのでしょう。伊豆蔵氏は、新しい西陣のあり方をと、その業界の中で改革を勤めたと。その都度、変人扱い。新しいことをして成功をすればパクられたり、裏切られたりと。
私の師匠も大島紬の染色家。奄美大島の本場大島紬、鹿児島の本場大島紬と二つの組合の間で、色々と改革を進めてきた。
それぞれの業界、そして着物業界の光と陰。頭を突っ込めば、突っ込むほど傷つき落胆する。うちの師匠もしかるべく。そして私も師匠と一緒に熱くなっていたから。。。落胆も多かった。
しかし職人さんたちに助けられたり生き方に勇気付けられることも多く豊かだった。
消えゆきそうな大島紬ならではの染めをストールに施すことで、大島紬の文化を後世にとumu-wakaをはじめ、少しずつ話題になっていくと同時に、その業界の権威のある方が演技までもして、umu-wakaを盗もうと企てられた時には、本当に悲しかった。
伊豆蔵氏の企業人としての、その改革の話を聞いて少し近しく感じていた。
そして、伊豆蔵氏とも話したのだが、同じく西陣の老舗、山口伊太郎氏の人生の集大成として取り組んだ源氏物語絵巻、90代になり目が見えなくなってからの鮮やかな色合いを迎えたその色を見て、
それは、2008年の頃だったか、私は、師匠の生多良が同じような時を迎えても、私は師匠の季節の色を形にしたいと誓い、山口伊太郎氏の家紋が入ったレプリカの竹製の物差しを買った。
そんな話もあって、私は自身の染め人生の誕生の時を味わっていた。
伊豆蔵氏の作品作りは、綱編みを行き切り、その後は、唐編みへと行き切り、そして今の形へと。人生の集大成の世界が始まったと。私が着ているニットが綱編みの集大成の作品
孤独
伊豆蔵は、いつも作品作りの時は「孤独だ!孤独だ!」とつぶやき続けているんですよと。
ストイックに染めれば染めるほど、日常生活はかけ離れていく。
集中して染めている時の苦しさは、孤独だ。それに今までは、師匠と一緒に染めていたので
一人で染めるようになってからは、なおさら、その孤独は直面していて。。。
そんな話をしていたら心が軽くなった。
そして奥様だろうか?
うちの工房は、そんな何か一人で見えなくなった作家たちが、たくさん遊びに来るんですよ。
ぜひ、工房へいらっしゃいと。
ここでも涙うるうるで、伊豆蔵氏と記念撮影する時には、お化粧が滲んでパンダです。
雨水で染めた真綿と同じように、もしかしたら超自然なお化粧なのかもしれません。
美しいということは苦しいこと 昨日書いたブログの、その苦しみも消えた。
行き切ることでしか見えないもの
伊豆蔵氏は、この先、洋服は製作しないという。
人生終盤の作品作りの集大成へと向かうからと。
スタッフの方が言う。
伊豆蔵の目は、コンピューターのように、どんな時も綱みの図面が見えていると。
そして、縄編みのニットの洋服を製作し切って、そのあとは、唐織りのニット製作。
唐織りのニットを行き切って、次の世界へと。
全て、行き切った後でしか、次に進む道は見えないのかもと。
行き切る。生き切る。
白黒は綱編みのニット、こちらのグレーは唐織りのニット(丁子染め、ラックダイ染め)
だから、私は先生の作品の行き切って次の作風へと向かったという
節目の洋服を二着、購入させていただきました。
私にとってのの矜持、いや経典、いや未来の地図として。
ワークショップで作った私の作品をアトリエの壁に飾った。
素材の力なのか、アトリエの中の空気が和らいだ。
驚いた。
そして5年前から美しい肌色を染めようと何色か研究していたストールを横に配置したら
一つの世界観ができた。
あああ。これも私の地図だ。
そう言えば、伊豆蔵氏が平面ができて立体ができるようになったら本物だと。
立体。20代の頃から立体をこさえてきた。
50代からの幼稚園児。
やっと製作することができる場所に来たのだろうか?
そんな風に思いながら、
今だからこそ、奄美の泥染、大島紬の泥染めに取り掛かろうと
泥染ストールを出して眺めている時に、waka-nuditeへと導いてくれた女史からメッセージが来た。
「うちの家系のルーツは、奄美大島の龍郷町だとわかったので、来週、奄美大島にルーツを辿る旅に出るので、オススメの場所を教えて」と。
ちょうど、手にしていた泥染は、龍郷町で染めたものだった。
そして、その晩にテレビをつけたら龍郷町の役場が映っていた。
神ぬ引き合わせに
稀稀汝きゃば拝でぃ
ー 朝花節・奄美大島島唄 ー
こうしてあなたと出会えたことは、きっと神様のお引き合わせでしょう。
島唄の掛け合いで最初に歌われる朝花節
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